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木下竹次先生の「学習原論」

Posted : 2014/10/14

 昨日、誕生日を迎えた私は、実家に立ち寄って、自宅の部屋を整理していたところ、先祖の著書があったので、しばらくこれを読んでいました。
 彼の名は「木下竹次」、私の祖父の父に当たり、その著書の名は「学習原論」です。

  

 この書籍は世界教育学選集の1冊として出版されています。
 監修者によるはしがきを読むと、世界教育学選集の趣旨が記載されていました。社会の変化の中で、教育的状況も変化するからこそ、世界水準に達した教育文献の中から、教育者たちの理論的研究の光となり、方向性を指示してくれるような労作を選択し、教育文化の遺産として、後世に継承することが目的らしいです。
 すごいプロジェクトに、ご先祖様の著書が選ばれたことは誇りですが、最初に出版された大正12年から時を経て、昭和40年代後半になって、こうした経緯で再出版された書籍が「学習原論」というわけです。
 目次を見ても、「序論」から始まり、「学習の目的」、「学習の材料」、「学習指導の教師」、「学級の編成」、「時間割の編成」など、実に教育実務的な章立てで、超硬派な学習論の学術書であることがわかります。

 さて、その内容ですが、「『他律的教育』から『自律的な学習』への進展」という記述をもって始められているように、簡潔に言うなら、極力自主性を重んじた学習こそが教育の核になるという思想です。もともと人間には、自主的な意欲を持って成長していく大きな可能性があるから、それを阻害しないで、最大限に伸ばしてあげることが教育である…という考え方でしょうか。
 このような総論に基づいて、木下竹次先生は、「独自学習」から「相互学習」の流れを提唱し、初期の「独自学習」…すなわち、「独自に研究し、独自に考査して進行すること」の重要を力説しています。
 興味深いのは、「独自学習」における教師の指導の仕方がいくつかの項目に分けて詳細に示されていることです。

 「暗示」の項では、「教師は質疑を受けても多くは直ちに教示し示範するものではない。一言の指導が積日の疑問を氷解させることがあって有効な結果に到達することもあるが、それよりも学習者に暗示を与え解疑の手掛かりを得させることに努力する、あるいは、いっそう進歩した問題を捕捉させる。解疑に最も必要なことはこの解疑の手掛かりを得ることだ。…我々は自分で解決できるだけの資料を持ちながら、その関係に気付かぬがために未解決となり不徹底に終わっていることが多い。この間に工夫を凝らして解疑の端緒を得ようとして、あれもこれもと実行してみることがある。芸術でも科学でも道徳でも解疑の着想ということはすこぶる大切である。学習者は種々の教授を受けるよりも、この解疑の着想の仕方を練習すべきである。徹底した学力を持ち、卓越した技術を持っている教師は適宜に暗示を与えてこの着想を練磨させる。いたずらに教授してこの貴重なる着想力を枯死させてはならぬ」と記述されています。

 また、「捨て置き」という、およそ教育の書籍らしからぬ、ものすごいタイトルの項目があるのですが、「教師は質疑に接してもその質疑が不当であるか、あるいは少し工夫すれば解決できると思うか、あるいは今返答しては学習の進行を害するなど思うたときは、捨て置いて答弁を与えない。学習者は捨て置かれて自憤し工夫し考察する。捨て置きはときどき答弁以上の効果を生ずる」という記述がされています。
 質問にむやみに答えるのではなく、すぐに解答を教えないで、考えさせることが大きな成長を促進させることがあるということでしょうが、これは、私の考え方とも似ているので、非常に驚きました。
 実は大阪で勤務弁護士と一緒に仕事をしていた2、3年前まで、私は勤務弁護士からの様々な質問に対して、自分はどう考えるか、自分の意見を付けて質問することをルールとして課していました。そうしないと、弁護士としての力をつける成長速度が遅くなるのではないかと考えたからですが、ご先祖様の理論と同じだとは思いませんでした。
 もっとも、木下竹次先生は、ただ捨て置けば良いと述べているわけではなく、「捨て置きには笑殺と黙殺と簡単な言葉の拒否がある。修養ある教師でないと捨て置くことはできにくい。力量偉大の教師でないと捨て置きを行なって効果をあげることはできない。信用のない、力量の乏しい、熟練を欠いた教師が捨て置きを行うと、学習者の反感を獲得することがある」とも注意を促して、この「捨て置き」の項目を締め括られています。
 「捨て置き」と「放置」は似て非なるものだということです。なかなか厳しい指摘です。

 一方、ただ自主性に委ねるのではなく、「開示」や「応疑」という項目もあります。
 「開示」では、「教師は学習者の質問を待たないで時機を見て啓蒙することがある。機が熟せないともちろん開示はせぬ。…開示するところは、端緒大意に止めるか、徹底を期して詳細に及ぶことがある。しかしどこかに進取研究の余地を存しておく」とし、続けて「応疑」では、「質疑に応じて適当な答弁をする。応答の際、教師は撞鐘のごとき態度を持つがよろしい。撞鐘は小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る。…疑問の程度に随順して応答すればよく疑問が解ける」と、非常に含蓄のある示唆をされています。
 私の先祖ということは別にして、子供だけでなく、社会人の新人教育などにおいても、現代でも有効に活用できるような名著だと思いました。

 私は、人生を60年一区切りと考えていて、仮にそれ以上生きることができるなら、それはボーナスくらいに考えて過ごしています。
 そうすると、私に残された時間はあと十数年しかなく、この時間で、悔いのないように弁護士としての仕事やプライベートを全うするとともに、次の法曹や現在関与している幾つかの会社の法務部の後輩などのために、そろそろ私が得た経験や知識は全て伝えていこうと考えています。
 この「学習原論」を読み込んで、木下竹次先生の考え方を意識しておけば、私の弁護士としてのキャリアの終盤において、おそらくとても役立つように感じました。
 ご先祖様からの示唆に感謝しながら、充実した来年の誕生日を迎えられるように、今日からまた頑張りたいと思います。




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