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運命の人の運命をも左右する法律解釈【「運命の人」最終回】

Posted : 2012/03/24

  東京事務所の木下です。

  先週、ドラマ「運命の人」が最終回を迎えましたね。このドラマは、沖縄返還協定に隠された国家機密のスクープをめぐる実話で、我々法律家にとっては憲法の授業で一度は耳にする、著名な「西山記者事件」を扱ったものですから、是非観てみたいとは思っていたのですが、昨年の「JIN」と同じで、最後の3話だけを観てしまうという中途半端をしてしまいました(ドラマ「JIN」の結末と漫画「JIN」の結末)。それでも、過去も現在も沖縄が抱える様々な闇という重厚なテーマを正面から扱っていて、骨太な良いドラマだと思いました。
  ところで、「運命の人」では中盤から終盤にかけて、刑事裁判が大きなポイントになっています。この事件では、国家機密を漏らした外務省女性事務官と、その情報を入手した男性新聞記者が、共に国家公務員法違反で逮捕されて起訴されました。事務官については、「職員は、職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない」という規定に違反し(国家公務員法第100条1項)、1年以下の懲役などの刑罰に処せられます(同法第109条12号)。また、新聞記者については、これらの「行為を企て、命じ、…そそのかし又はそのほう助をした者は、それぞれ各本条の刑に処する」という規定があることから(同法第111条)、秘密を漏らした事務官だけでなく、これをそそのかした教唆犯として同様の罪に問われるわけです。

  さて、このドラマにおいて、弓成記者らは無罪を争って最高裁まで法廷闘争を続けたわけですが、彼らは自分達が漏洩に関与したことを否定しているわけではありません。人違いや濡れ衣だと言って、犯人性を否認しているわけでないのです(殺人事件に置き換えると、真犯人は別にいるという争い方はしていないということです)。また、同時に弓成記者らは、犯人性を認めながら無罪を争うときの定番になっている、責任能力を争っているわけでもありません(殺人事件に置き換えると、たしかに人は殺したが、精神異常を来していて是非を区別できる状態ではなかったから、罪は問えないという争い方もしていないということです)。そうすると、弓成記者らが情状酌量を主張して、減刑を訴えることは理解できても、無罪を主張できる余地などあり得るのか、余りにも厚かましくないのか、しかも地方裁判所の第一審では、何故弓成記者の無罪がまかり通ったのか、女性事務官が有罪で弓成記者だけが無罪という結論があり得るのかなど、釈然としない疑問を持たれた方も多いと思います。
  私は、この裁判は法律にはたくさんの解釈を伴うという難しさがあることを示す好例だと考えています。ここが、どんなに時代が変わっても、コンピューターで裁判をすることはできないだろう所以です。
  先程の条文を見ていただけると分かるように、実は法律の文言というものは、それほど一義的に明確になっているわけではないのです。この「運命の人」の事例だと、秘密漏洩罪が設けられていて、これに反して秘密を漏らしたり、これをそそのかせば処罰されることは明確です。しかし、いざ現実の事案にこの条文を当てはめるとなると、文言上はいくつかの曖昧さが残るわけです。例えば、何が秘密漏洩罪の「秘密」に当たって、何が当たらないかは明記されていません。条文には単に「秘密」としか規定がないわけですから、どうしても解釈の余地が出てきます。仮に情報が「秘密」に当たらなければ、事務官がこれを漏らしても犯罪にはなりませんから、事務官も新聞記者も無罪です。また、同様に「そそのかし」に当たるかどうかにも、解釈の余地があります。特に新聞記者は取材することが仕事そのものですから、「秘密」も含めて、情報を聞き出そうとすることが直ちに「そそのかし」に該当して犯罪を構成するとは考えられないです。そうだとすると、仮に「秘密」に当たる情報だとしても、取材の自由の範疇として正当性が尊重されれば、「そそのかし」には当たらず、事務官は有罪でも新聞記者は無罪という明暗の別れる結論もあり得ることになります。以上より、弓成記者らには、無罪を主張できる可能性は十分あること、事務官と新聞記者で結論が異なる余地があること、その鍵を握るのは法律解釈にあることがお分かりいただけるのではないかと思います。
  そして、その法律解釈は、制度趣旨や価観の重んじ方などで結論が大きく変わります。例えば「運命の人」の事例だと、国民の知る権利を重視すれば、それに奉仕する取材の自由も強く尊重されますから、「そそのかし」の範囲は狭く解釈されるでしょう。他方、行政の裁量や円滑化を図った制度趣旨を重視すれば、「秘密」の範囲も広くなるとともに、この制度趣旨を害する危険のある「そそのかし」も広く解釈され、処罰範囲は拡大すると思います。西山記者事件の第一審判決は、国家行為の公開原則を前提にして、公開によって行政の目的が失われてしまうケースなどに限って例外と考え、「秘密」や「そそのかし」を狭く解釈しました。国民に対する隠し事とも言える「秘密」は広く認めるべきではなく、これを公開するために役立つ取材の自由を尊重する考え方ですが、このアプローチは最高裁判所で否定されてしまいました。正に法律解釈によって、有罪にも無罪にもなり得るわけで、価値観の置き方によって、その法律解釈も異なることを示した好例だと思います。

  ここで私には、西山記者事件について、有罪と無罪のどちらが正しいかを断ずることはできませんが、こうして説明をさせていただくと、法律解釈というものは、かくも曖昧で難しく、だからこそ面白いことはご理解いただけるかもしれませんね。
  ただ、その法律解釈次第で、犯罪者の烙印を押されるのか、無罪放免となるのかの瀬戸際に立たされる被告人は面白いどころの話ではありません。「運命の人」を観て、このようなシビアな法律解釈に左右される案件については、本当に全力でサポートしなくてはならないということを改めて痛感しました。




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